『生まれいずる悩み』は、1918(大正7年)に発表された、有島武郎の小説です。
何に悩んでいたの?
それがね、読んでも、ほらこには、よく分からないんだよ。
目次
主な登場人物
私
物語の語り手。文学者。少年であった「君」の来訪を受け、その絵に感銘を受ける。
君(木本)
自分の絵を見て欲しいと「私」の所に絵を持ち込む。東京の学校に通っていたが、経済的な事情で学業も絵も続けられず、郷里の北海道岩内に戻り漁師となる。最初の出会いから10年後、再び「私」の元に絵を送ってくる。「私」と再会し、漁師としての暮らしぶりを話す。
あらすじ:ネタバレあり
札幌に住む「私」の所に、「自分が描いた絵を見て欲しい」と、少年の「君(木本)」が訪ねてきます。木本の絵は稚拙だけれど不思議な魅力がありました。
木本は「また絵を送る」と言い帰りましたが、その後音信不通になってしまいます。
最初の出会いから10年後、木本から小筒みが届きます。木本は、実家の経済事情の悪化により、学校を辞め漁師となっていました。送ってきた絵は、漁師をしながら描いたものでした。
私は木本と待ち合わせをし、再会を果たします。木本は、自身の暮らしについて語り、翌朝吹雪の中を帰って行きました。
私は、木本の生活や苦悩について想像し、木本に春が訪れることを祈ります。
解説
文字数は54,807文字。1分間に読む文字数を500文字と考えると、だいたい1〜2時間で読める分量です。
有島武郎(ありしま たけお、1878(明治11)年3月4日〜1923(大正12年)6月9日)は、大正期に活躍した小説家です。1901(明治34)年にキリスト教に入信しており、キリスト教をテーマにした『カインの末裔』を1917(大正6)年に発表しています。また、志賀直哉や武者小路実篤らと共に、同人「白樺」に参加していました。
1910(明治43)年に創刊された雑誌「白樺」を中心に活動していた文学者や芸術家をさします。人道主義、理想主義的な作品を発表しました。千葉県我孫子市に我孫子市白樺文学館があり、白樺派関連の資料の閲覧等ができます。
1917(大正6)年 | ロシア革命 |
1918(大正7)年 | 米騒動、『生まれいずる悩み』発表 |
1919(大正8)年 | ヴェルサイユ条約(第一次世界大戦の講話条約)調印 |
『生まれいずる悩み』が発表された1918(大正7)年は、米騒動が起こった年です。米騒動は、コメの価格急騰を契機とした民衆の暴動です。この米騒動をテーマにした井上真央さん主演の映画『大コメ騒動』が、2021年に公開されています。
米騒動は、100年以上前の民衆暴動ですが、インフレ、貧困、格差社会といった、庶民が抱える問題自体は100年経っても変わらないのだなぁと感じます。
君(木本)のモデルは、有島武郎との親交があった北海道岩内の画家、木田金次郎氏(1893-1962)です。漁師をしながら岩内の自然を描き続けていた木田氏は、有島武郎の没後、漁師をやめ画家に専念したそうです。木田氏の作品は木田金次郎美術館で見ることができます。
感想
作品中で描かれる「悩み」は、生活のために絵を諦め漁師としての毎日を送る「君」の悩みなのか、それとも「君」の悩みを想像している「私」の悩みなのか、読んでいるとよく分からなくなります。そして、描かれているのは「君」の姿に投影させた「私」の悩みであり、二人に共通する悩みなのでしょうか。
この作品が発表された大正時代は、今みたいに誰もが簡単に作品を発表できるような環境は整っておらず、文学や絵画で身を立てて生きていくことが出来たのは限られた人達だけだったでしょう。生活のために芸術を諦め、日々の糧を得るための仕事をせざるを得ないという状況は、芸術家にとっては恐らく、とてつもない苦悩を伴うものなのでしょう。
ということは分かった上で、それでも芸術的な素養がなく、思うような創作活動が出来ないことの苦悩というものが本当の意味では理解できていない私には、木本の生き方は充実した人生に見えてしまうのです。「生活を支える生業があって、好きな絵がある。いい人生じゃないか。どこに悩む余地があるの?」と、思うのです。
作品中の「私」や「君」の苦悩は、もしかしたら、芸術についての理解が乏しく、彼らの苦悩に共感できない私のような外野の無理解によって、さらに深まるのかもしれない、そんな風に思いました。
関連というより、連想ですが「生まれいずる悩み」を読むと浮かんでくるのは、三浦綾子氏の『氷点』です。『氷点』は1965年に刊行されました。クリスチャンである三浦氏が、キリスト教の「原罪」をテーマにした作品で、妻の不倫中に幼い娘を殺された夫が、娘を殺した殺人犯の子(陽子)を、妻には殺人犯の子であることを言わずに引き取り、養女として育てるお話です。『氷点』と続編の『続氷点』を高校生の頃に読み、非常に大きな衝撃を受けました。陽子の人生を思うと、まさに「生まれいずる悩み」という感じがします。刊行されてから50年以上が経つ作品ですが、色褪せない名作だと思います。
有島武郎(1878-1923)の『生まれいずる悩み』は、著作権保護期間が満了した日本国内ではパブリックドメインの作品です。青空文庫、アマゾンKindle、楽天ブックスで無料で読むことができます。